2011年11月21日月曜日

分裂と統合☆

こんにちは、べっぽです♪
今は夜のお仕事をしているのですが、昨夜は久しぶりに精神分裂の症状が出てしまいました(^-^;)

お仕事ではなかったんですけどね。あ、おやすみだったから気が弛んで発症したのかな。


自分の考えていることが、他の人に全部知られてしまっているという妄想による過緊張とか。

その場を、昔別れた彼氏なり両親なり、大切な人に見られているっていう恐怖から、笑いながら泣いたり突然キレたり、息苦しくなって過呼吸になって、腹部に疱疹が現れて突然、水様便に襲われたりします。

それで、自分に対して、責任の所在が不明確になります。あくまで、自分にとってですけど。これは、とっても大きな不安に見舞われます。

私の症状は昔から、そんな感じ。


妄想癖もありました。

自分には既に小さな子どもが居て、何が何でもご飯を作ってあげないと、お金を作って幼稚園に行かせてあげないとって、本気で思い込んでしまうんですが、昨夜はそれと同時に、そう思い込んで存在している自分を客観的に見つめている自分が居て、これは初めての感覚だったので気が狂いそうっていうか狂ってたんでしょうか(笑)


幻聴が凄かったんです。一人で居たわけではなかったんですが、2人の自分が耳元で話しているんです。

幻聴です、はっきり声として認識してましたもの。

朝起きて、最初に両脚が痺れてまったく自由がなくなりました。

その次は両腕です。何かに掴まれてるようにガッチリ固定されて、硬く脆くなって、腕を引いてもらった時に、肘の上から千切れてしまうかと思いました。

それから呼吸と表情がコントロール出来なくなりました。

唾液は血の味がします。強く頬の内側を噛み続けていたのに、さっきまで気付いていませんでした。


今も軽く、そういう自分の内部で色々なものが渦巻いているのを感じますが、お陰で自分の感動の原点を思い出したように思います。


病気を治す手段は沢山あるのかもわからないけど、自分がそれを受けてるだけじゃ、多分感動はないんです。

感動は受動的なものじゃないんです。

病気が勝手に治るから感動するんじゃなくて、自分が本当に共感出来る理論を探して、そこに実践が加わるから感動するんです。


他人にすがるのは、お金が勿体ないだけです。

他人に指示をするのは、労力が勿体ないだけです。


自分自身、心のままに矛盾ない生き方を目指す。

それだけで、すべてが良い方向に向いていくような気が、今はしています。


自分として生きられることが、きっと何よりも幸せです(^-^)

2011年11月14日月曜日

読経☆

こんにちは、べっぽです♪
今日は母の薦めで、今の仏壇?でロウソクを灯し、線香を立て、お経巻をあげていました(^-^)
うちの母は日蓮宗なので、南無妙法蓮華経です☆

途中までは言葉が理解出来るので、歌うようにとても気持ちよく読めるのですが、途中から意味が全くわからなくて、区切りも大分間違っていたようで母に突っ込まれてしまいました(笑)


意外と良いこと書いてあるんです☆



気に入って覚えているのは、

有為を求める者には、無為の心を成さしめ

だったかな。(おこらざさしめ、かも)


結果よりもプロセスを大事にしなさいっていう意味かなと思うんですけど。

「何のため」がハッキリしない行動が、許せない私は、無為の心を持たなきゃなって思いました。

そんなことなくて、とりあえず生きるのに必死だった私に戻れたら幸せな気もするけど…

そんな時分、私は本当には幸せじゃなかったから、「何のために」っていう感覚を持った時に、物凄く感動したんだと思います。


幸せのカギは教育だって言うのが私の持論です。

ルールを破ることで刑罰を与えるのか、守ることで希望を与えるのか、それを明確にすることが教育の前提だと思います。


でもそれは、言葉にしなくても子どもは本能で感じ取るものでしょう。

欲を隠したり、誤魔化す親ならば、子は、知らず知らずに犯した過ちを自覚するにつれ、罪悪感を抱くようになると思います。

欲に忠実に生きる親ならば、子は、自分自身の心の声を頼りに生きていくことが出来ると思います。

大事なのはバランスだと思いますけど。



死んだあとも、誰かが仏壇に向かってお経を読んで心が晴れる、そういう連鎖があるからあそこの宗教団体との繋がりを絶たないって母は言ってました。

スッキリしない時は人と話すと迷惑をかけるから、お経読んでろって。


個人の在り方も大事かもわかんないけど、こんだけ、引き籠もってても何となく生きていけちゃう世の中では、法律をもっとちゃんとしていくことが、個人の能力を活かす社会作りには先決じゃないかなぁと、いつも思うんですよねぇ。

私もちょっと外に出て見たら、やっぱり「ばかやろー てめぇ このやろぉ><」とか思うこといっぱいあって、理屈より実践が大事だなって思うこと多かったですけど。

論より証拠じゃ、やっぱり、社会主義に傾き過ぎちゃうと思うんですよねぇ。

政治で有言実行しようと思ったら、国民の協力が不可欠だから、もう国民のみなさんは首相の一挙手一投足を報じるマスコミに躍らされたらイカンですよ。

それぐらい大らかにならなきゃイカンですよ。

現状なんか、誰がピエロになるかってだけで、内閣が代わってもどうせ大差ないですから…。

希望を失っちゃいかんですよ、日本人ですもの。日本は愛の国ですもの。



あ、今日久しぶりに庭の土耕してたら、何か土壌がめちゃ良い感じになってて、トマトとかナスの木も壊して肥やしにしてきたので、また春に何か種まきしようかなっと思います♪

来年こそ、自家製ハーブティ作るのだ☆

今日は大きい人参と小さい人参収穫です(笑)

小さいから収穫しないで畑に転がしておいた玉ねぎちゃんも、腐らず結構大きく育ってたんですが、、、これは食べられるんだろうか(笑)

食べてみます☆

畑ってすごいね、あたしゃネグレクトしてましたが、みんな結構生きてました(笑)

美味しかったら、お母ちゃん許して貰えたって思っていいかなと思います。

2011年11月12日土曜日

ぞろ目☆

昨日は11.11.11.でしたね、おはようございます。べっぽです♪
今日は雨も上がり、空は澄み切って何だか清々しい1日の始まりですが、如何お過ごしでしょうか(^-^)☆

私は、根っからの面倒くさがりなので、マメな仕事が出来ません。
これは、出来ないんじゃなくてやらないだけだと反論されることもありそうですが、本当に出来ないんです。

物凄く時間を掛けて、細部まで描き込んだ絵ほど、破り捨ててしまうというのが昔からの習性で、これを仕事でしてしまうと、仕事にならないので、出来ないんですね。


それならば、一体私には何が出来るんだと昨日は少し考えてみました。



…… …‥・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


考えていたら、一冊の本に出会って、その答えが全部(?)書いてあったんです。

必要な人は出会うと思うので、タイトルは書きませんが、本当に素敵な言葉や絵がいっぱいの、キラキラ輝く本なのです☆

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そう、「誰かのために!」ってみんな口をそろえて言うけれど、実際そうしようとしてみてわかるのは、誰かに何かをしてあげられるほど、自分は大きな存在じゃないのだ、ということ。自分のことで、精いっぱい、生きていくことで、精いっぱい。そんなちっぽけな自分の正体を隠さずに。それなら、そんな自分自身の身の丈に合ったやり方で、淡々と、ただ周囲にとって心地よい存在であることを黙って貫くほうが、ずっといい。
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身の回りに起こるすべてのことには、感謝して、愛さずにはいられないんだから、心配しなくて良いんだなぁと、安心感を貰いました。


そう、ただ幸せを思い出すだけだから、簡単なのです☆

頑張って、努力して、手に入れたものを忘れてしまえば良いんです☆

不幸を忘れてしまえば、幸せを思い出すんです☆


苦しみを知る前の自分に。

葛藤を知る前の自分に戻ろう。


だけど、人の痛みを感じる心だけは、忘れないで居たいなぁと思います。

綺麗な言葉を使えるように。
まっすぐ見つめることを恐れないために。


今日はお空が白く霞んで、コットンの手袋で頭を撫でて貰っているような優しい気持ちに包まれてます☆

小春日和って言うには、まだ早いのかしら。

2011年11月9日水曜日

ドールハウス☆

こんにちは、べっぽです☆
風邪で寝込んでいるので、お部屋の掃除もお料理もしないで、本を読んだりビーズで遊んだり、おうちにある食べ物をつまんだりして自堕落な生活をしています♪


いつもより沢山笑ってる気がします。
アウトプットをしてないからかな。

私は何かを生み出そうとすると、いつも泣いています。
泣く時は、副交感神経優位になっているから、リラックスしてるんだよって、昔マッサージ屋さんに居た鍼灸師の先輩が教えてくれました。

責任も目標もなく、ただ存在してるだけ。

時間の制限もないし、行動しないことに対する叱責もない。

やりたいこともない。会いたい人も居ない。聴きたい歌も、読みたい本もない。

ただ、目に付いたものを手に取るだけ。動物のようだけど、今の私は5感を使っていないので、それも少し違う。

想像力も使っていない。だから、不安も恐怖も快楽も興奮もない。


何もないことで生まれているのは、安心かもしれない。


先日、岐阜の護国神社に行ったんですが、それから風邪が続いてるんです。

戦没者を神様として奉った神社で、境内の所々に、戦の虚しさや勝利の侘しさを綴る石碑みたいのがありました。

戦争や病気や貧困について考えることは、精神にはとても大きな負担になります。

食欲も無くなるし、夢も希望も失いそうになります。

それでも、戦場で生きる子ども達が居ることは、私でもいつかは可愛いお母さんになれるんだろうという希望に繋がります。


貧しい国では、子育ては厳しいから、病院では中絶を勧めるんだそうです。
それでも、多くの母親は生みたがる。

自分から生まれてくるものを見ること、感じることは、純粋に幸せなんだそうです。


今の私は、幸せを求めないほどに幸せです。何だか不思議な感覚。
特に何があったと言う訳でもないのですが…。

守られてる。だから生きてる。それだけで、何だか幸せな気がしてしまいます。

風邪のせい???

なんか、とっても出来の悪い子って感じです。いつからこうなったんだろうか…。

昔は、それなりに優秀だったと思うんだけどね。豊橋の気候は、戦意や向上心を奪うような気がします。

そういう所が、一番好きです。

2011年11月6日日曜日

歌を詠もう☆

こんにちは、べっぽです♪

有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし

切ないなぁ~~~~~~~☆何百年も前の人が書いたなんて、何か信じられない><
腹から声出して詠むと爽快です☆


一度失ったものは、諦めるべきなのか、探してまた得るべきなのか、悩むことってありませんか。

私はあります。

暁の空に有明の月を見て、まだ辛い時っていうのは、多分まだ 探せば見つかるって思ってるんですよね。


自分の立ってる位置は関係なくて、どこに居ても、有明の月は辛いんです。

でも、本当に探してるものを見つける気なら、無くした場所に戻らなきゃいけない。


私にそんな覚悟は、ない。


だって辛いんですもの。


それでも、何の因果か、ふらふら歩いていたら同じ場所に立ってしまったようで、見つけたくもないのに、突然見つかってしまうことがあるんです。

今は要らない宝物、どう使ったら良いのか、どう持てば誰にも見つからないのか、分からなくて持て余してしまうんです。


誰も奪ってくれない無形の資産、何処に投じるべきか定まるまでは、無駄に使ってはいけないんでしょうか。


今の自分で幸せを感じてしまうことに、ある種の罪悪感を感じています。

本質的な孤独がそうさせているのかもしれません。

こんな時は写経だな!やっとこさ、人生初の写経にチャレンジしてみますわよ☆

300円で大須観音に納めよう(笑)


自分自身、何が好きで、どんな顔をして、体温とか声とか眼や髪の色とか、突然わからなくなってしまいました。

髪染めてもないんですけど。別に。


こういった類の不安は生まれて初めてなので、克服の仕方がさっぱりわかりません。

不安なのに、どこかに甘い期待があるんです。

形が無いから、一体何が見つかったのか、さっぱりわからない って、一体私は何を書いているんでしょう。


これは、誰かが助けてくれる問題ではないような気がします・・・。

というよりは、助けて欲しくないのかも。

意味がわかりませんね、失敬。